予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ

中央教育審議会大学分科会大学教育部会が3月にまとめた審議概要が学内で回ってきました。ググってみると以下の通り本文はとうに出ていて、今回教職員に回ったのは、意見募集期間であるので忌憚なくお寄せいただきたいという文部科学省からの通知でありました。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/houkoku/1319183.htm

いわゆる大学改革についてはもう私も覚えきれないというか途中からちゃんと読んでる自信がないくらいの蓄積があるわけですが、今回のポイントは「学修時間の確保」であります。家に帰った学生が勉強してないじゃないかというわけです。さかのぼって、学生に問題解決能力をつけるためには、自分で勉強する時間がもっとなければいかんだろうというわけです。

 今回の提起、残念ながらというべきでしょうか。まず思い出されるのは「ゆとり教育」の顛末です。本来「総合」科目は文字通り多様な学びと触れ合いを通じて総合的な分析・判断の力をつけていく科目であるはずでしたが、多くの先進例と多くの残念例を生むに至りました。成果が測りにくい科目に既存のリソースで挑んだ結果、成果が測りやすい部分での学力が落ちて行ったのであります。

「問題解決能力」そのものは客観的な直接計測が困難です。無人島サバイバルめいた人工デスマーチ環境でも作らないと「直接」測ることはできません。だから論文作成能力などの中間指標で見るしかないし、それである程度は見えると思います。

 問題は、「採点し、アドバイスする」ところにすんごいエネルギーとスキルを食うということです。「ダメ。全然ダメ。書き直し」くらいなら数秒で書けますが、伸びる余地のある人は伸ばさないといけませんし、個別に診察して現状判断して処方箋を出すとなると、集中力と研鑽したスキルと、たぶんある程度の才能が必要です。

 高校教諭に研修制度のある都道府県で、自発的にいじめ問題などの研修をする人がほとんどいないと聞いたことがあります。そりゃそうでしょう。そんなスキルつけたらその担当にさせられて、消耗しきるまで「余人をもって代えがたい」とか言われて仕事のデスマーチが来るのが見えているじゃないですか。

 おそらくこの話、ここがボトルネックというか、落としどころの探り合いになります。PDCAサイクルのcheckのところでマンパワーが足りないのですね。TAを増やせばいいかというと、今度はTAの教育能力や人間力が問題になり、重症患者のいるところほどキツいので看護師が集めにくい…みたいな話になります。

 もともとこの話は「単位制度の実質化」というキーワードで語られていて、きっちり半期15週の講義時間を確保しろと徹底されたもので、大学生の夏休みは短くなり、クリスマスを過ぎても講義をするようになり、1月4日から講義が始まったりするようになりました。これは教員の研究時間に大変なプレッシャーとなっていて、いや講義延長の話じゃなかっただろ? 学生に勉強をさせる話だっただろ? という話が大学分科会で出て、今回のように結実したのではないかと拝察します。

 機能分化という点でいえば、教育にひたすらひたすら身を削ってくれる大学の出現を待望する向きもあるんじゃないかと思います。ただ「収入が先細りで訴訟リスクの高い産婦人科が足りない問題」を思い出していただければわかるように、この仕事は個々のスタッフからすると「あまり得意だと思われると損」な仕事だろうと思います。いや、事務が窓口でどういう丸投げの問い合わせとかミスの後始末をする相談とか身勝手な要求とかにさらされているか、私は細かいお話は存じませんけれども、教員だけでなく窓口担当職員の話でもあります。

 もうひとつ、この話に抜けている視点を上げると、「その大学は本当に親や学生に選ばれ、志願者を確保できるのか」ということです。授業料が同じなら面倒見の良い大学がいいに決まっていますが、例えば「宿題漬けで家に帰ったら寝るだけ! いや寝るな! むしろ寝るな! 若さと生命力の限界に挑戦する充実の学生ライフ!」というのは魅力的なキャッチフレーズでしょうか。

 後半、極端な例を挙げましたけれども、落としどころは課題による単位認定・成績認定の拡大でしょうね。すでに一部の大学では、ボランティア・社会人経験など講義時間外の活動について報告書などを書かせ、単位化しているところがあります。これを拡大するとともに、一般の講義でも15週の縛りを緩和する代わりに長文のレポート等を化すような方向が認められれば、自宅学習が結果的に必須になる方向への改善はできると思います。自宅学習しないのは、しなくても卒業できるからですから。きちんと評価してやればよく、またそこが大変だからあまり広がらないのです。

世の中に蚊ほどうるさきものはなし ブンカブンカと夜も眠れず

山上浩二郎の大学取れたて便
大学とは何か、キャリア教育や大学予算の貧困に危機感広がる/中教審・大学分科会
http://www.asahi.com/edu/university/toretate/TKY201011160352.html

 大学とは生きる力をつけるところである。可能な限り煎じ詰めるとそういうことだと、私は考えています。この記事にもあるように、大学の中には(そうはっきり口には出さないけれど)研究環境への関心が教育環境や教育の中身についてよりも高い先生もいらっしゃいます。教育での実績を大学での昇進において評価するのはきわめて難しく、せいぜい一定程度に達していればヨシと「必要条件のひとつ」とするのが関の山です。関の山と言ってもおそらく世間が思っているより現場は進んでいて、埼玉大学経済学部が新採用する教員はたいてい、選考に当たる教員たちの前で模擬講義を一時間やらされます。

 受験生も大学生もまだまだ、大学に入って楽に出て行くことを考え、指示の明確さとハードルの低さを大学に求める意見がよく聞こえてきます。「大学の外に出て役に立たない勉強をするかどうかは皆さん次第だ。ノートが取れずにプリントされた講義資料に頼っているようで、社会に出てワガママなお客のメモなど取れるものか」などと私は学生さんをよくけしかけます。

「社会人基礎力」「学士力」とキーワードだけは踊りますが、話し・聞き・読み・書く力、チームの一員となって働く総合的な力は常にその中に入っており、あえて言えばその中心です。その総合性が、大学にあって他の機関にはなかなかないものです。そしてホンモノを学生に見せるために、ホンモノの研究者が必要なのです。それは総合性の一翼でしかないので、大学教員が研究以外のことをさせられるのは仕方がありません。教員にも総合性は必要だということです。

 大学分業論は1998年の大学審議会答申「21世紀の大学像と今後の改革方策について ―競争的環境の中で個性が輝く大学―」のタイトルに見え隠れする(もちろん本文にも出てくる)話で、陰に陽にすべての大学が問いかけられ続けて10年以上になります。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/daigaku/toushin/981002.htm

 例えば社会人教育は夜間開講など、他のニーズと真っ向から資源を食い合うしかない性質のものです。かといってそれだけを分離させるとコストが上がってしまいます。埼玉大学は「多様なニーズや研究リソースを持つ首都圏の一角を構成する埼玉県下唯一の国立大学であるという特性を最大限に活かし」云々と中期目標にうたっていますが、「色々あるのがいいんだよ」と言わんばかりです。いや、私はそう思っているのですが、そこまで言い切ることが埼玉大学の総意かというと自信はありません。

国立大学法人埼玉大学の達成すべき業務運営に関する目標(中期目標)
http://www.saitama-u.ac.jp/guide/pdf/chuki-mokuhyo.pdf

 私の担当するミクロ経済学が県民開放講座に当たった年などは、県民開放講座の御老人方、社会人学生、昼間主コースの一般学生、さらに制服で登校してくる高大連携講座の高校生がひとつの教室に集まりました。「いろんなことを少しずつやっているメリット」が端的に現れた例です。実際の例をひとつ挙げるたびに、年長者にだけ分かる話であったり、若い人にだけ実感できることであったりします。その反応を横目で互いに見ていたみんなに、メリットがあったと思います。

 埼玉大学経済学部のホームページには「普通をしっかりやってます」と書いてあります。これは学部が目指すスローガンではなくて、広報担当の教員が「実際に私たちがやっていること」を短く表すために工夫した表現です。

 私たちは一年生のための必修科目「プレゼミ」を置いています。最初の週に顔合わせと説明をして、大急ぎで希望を取って抽選をして、最大でも14名の小グループで半年間勉強します。これは全国の経済・経営系学部で普通に置かれているものですが、私たちのプレゼミにはシンプルな、際立った特徴があります。すべて例外なく午前9時からの、一番早い時限に置かれているのです。大学生になったからと早起きもできなくなった学生には、埼玉大学経済学部は昼間主コースの卒業証書を出しません。これは教員からの抵抗も……げふんげふん。早起きは普通の初めなり、というところですか。

「経済学」「経営学」「法学」の3つの基本科目は昼間主コースで必修です。それぞれの分野の基礎的な考え方や言葉を学びます。「経済学部卒業生すべてに知っておいてほしいこと」を教員の間で考えながらお送りしています。これらを受講してもらってから、1年生の終わりに学科所属の希望を聞いて、基本科目の成績順に希望を通します。もっとも、所属学科の科目を最低いくつかは取れという制限があるだけで、学科によって「できないこと」はほとんど生じていないと思います。

 2年生になると、9割くらいの学生はどこかの演習に所属します。2年間受講して4年生になると6割あまりの学生が演習論文を書きます。学年ごとの上限は10名としていますが、4年生が実質的に演習にいるとしても最大30名。プレゼミや演習の教員は一種の担任であって、取得単位数などで見て標準的な履修ペースから離れていると電話などで呼び出して、直に話を聞きます。あえて「話し合い」とは呼ばないことにします。まず話を聞きます。

 大学入試は「シンプルな学力テストをしただけ」です。家庭や経済状態や順応力といった、測りたくても測れないものは測っていません。だからまあ、入ってから色々噴き出すわけです。たぶん御本人にも想像できなかったものも含めて。それを全部何とかできているとは思えません。自己責任という言葉はきれい過ぎて実態から遠いですね。ほんとうにどうしようもないのです。自分が「なりたい自分」でないことは、本人も含め、誰にもどうしようもないのです。今いるところから歩き出すしかないのです。社会人がみんなそうやっているように。

 そんなときに役に立つ「生きる力」は、たぶん学問じゃありません。もう少し根本的で総合的なものです。学問をすることは、それに触れ、それを伸ばすための方便なのです。

 私のゼミ学生に日本銀行が「金融経済に関心を有する幅広い読者層を対象」に向けて発表している日銀レビューシリーズを読ませてみました。「リスクアペタイト」「ラ米」などと普段使わない言葉がジャラジャラ出てきます。丁寧に解説していたら4ページ読むのに2週間かかってしまいました。それっくらい世間と高校の差はあるのです。そのギャップに大学を出てからぶつかったら、そりゃ3年で辞めるでしょう。大学にいる間に少しでもギャップを埋めておかないといけないし、埋め方を知らないといけません。資料の使い方、頭の使い方、人の使い方。いきなり「指示を下さい」と丸投げじゃ人は助けてくれません。

 そういった総合性のスープを提供することに、分化というなら分化したいものです。まあ私たちが、アピールの仕方を工夫しなきゃいけないことは認めますが。

エンタゲ

 インタゲというのは動学的不整合性の文脈で、通貨当局が「政治的な」意思決定をすると景気を押さえ込む方向の政策が取れなくなって困るから、数値目標を約束してしまおう(景気引き締めにいちいち反対が出ないようにしよう)というものだそうですね。

 だから「国債買いオペは日銀券発行残高までね」という政策委員会申し合わせは、インタゲじゃないけど政策ルールではあるんですよ。

 貨幣には資産需要と取引需要がある、というのは古典的な解説ですよね。いまストックの一種として円を持つ(株や債券すら買わない)動きが為替相場を動かすほど大きいわけですから、資産需要の円がいくら市中に出てもリフレ圧力になりません。かといってバーナンキが言っていたように、円の資産価値が減じるまで市山陽の円を出し続けたら、それこそヘッジファンドよりも、日本の家計資産が破壊されてしまいます。

 それだったらエンタゲなんかどうかなと思います。例えばこんなルール。

「1ドル=100円が達成されるまで、日銀は毎月1兆円の既発国債を買う」

 このルールのいいところは、円相場が下がったら買わなくてもいいところ。買うとどんどん日銀の資産内容が悪くなるんですからね。ただ国債利回りが下がるだろうから、金融機関の経営を直撃するんですよねえ。けっこう日本にも「円高で楽になる」セクターが出来てきたようにも思います。

比例代表名簿

 耳に快い、あるいは単に威勢のいい政策がマニフェストに並んでいる場合、その整合性を回復し優先順位をつけるのはまさに政治過程であり、整合性も取れないし優先順位もつかないままばらばらに政策が実行されるという結果も含めて、なんらかの結果が出ます。

 そうした、教育課程をマニュアル化しにくいスキルを覚えるには、官僚として政策決定に参加する、政治家の親族として秘書などへの任命を受け政策決定に参加するといった、正統的周辺参加(ウェンガー)が広く知られ、使われています。そうした候補者選定には世襲や縁故が入り込むため一定の弊害があります。

 政治は利害関係の調整であるため、政治的要求をそれが存在するからという理由でマニフェストに並べれば、整合性がつかなくなるのは当然です。そうしたリスティングは必要であって、原稿の草稿のようなものです。利害関係の調整が進み、優先順位がより明確になったマニフェストは、より完成度の高いマニフェストです。完成度の高さ低さは有権者の判断材料となりますが、いずれにしても与党のマニフェストだから完成している、などと仮定する理由はなく、完成度が低いほど政治的調整の仕事が多く残ります。

 そうした調整の担い手や調整案の出し手は憎まれるのが仕事のようなものです。状況が悪いとき、当然に出た悪い結果について責任を問われるのもこうした人たちです。もっぱら政治家が責任を取り、官僚が中立的な執行者としてスキルを提供していくと、後者ばかりが長生きする結果になるか、少なくとも前者は疑心暗鬼に陥るでしょう。国全体としての経済的な成功が望みにくい状況が長く続く中で前者が後者を非難し、その権限を削ろうとする気持ちは分かります。ただ官僚が行ってきた調整、とくに実行可能性の担保や政策評価を政治家が行うには、政治家側のプロフェッショナリズムが必要です。そこを個別の問題について官僚に尋ねてやっていくのでは何にもなりませんし、整合性のない「民意」を振り回せば全体としてコストの超過か重大な不備・欠落を招きます。

 それは個々の選挙区の利害とは関係のない活動ですから、民意に任せるとそうした議員は選挙で不利です。比例代表名簿の上位に、各政党が政策立案や政治調整の中心となる議員たちをどう載せていくかを、これからは有権者もしっかり判断する必要があるでしょう。

農業保護と農村保護

 ミクロ経済学の教科書的な理解から言うと、すくなくとも貿易途絶などという事態を想定して日本の食料自給率を語ること自体、およそ無意味です。最初から日本だけじゃ無理なのです。

 まず農業機械を動かす原油。数十日分の石油備蓄はありますが、それだけのこと。

 肥料は自給できているように見えますが、そのまた原料が国際的に偏在しています。

肥料価格の現状等について(農林水産省生産局 平成20年7月)

 そして労働力。最低賃金法の対象とならない外国人研修生が不足を埋めている現状です。

 ただ、食料自給というイメージが農業政策の目的に(他に良いものもないので)深く関わったまま長い年月が過ぎてきた現状があり、いまさら引っ込めることもできません。実際に農業政策が守っているのは何なのか、と考えてみることにしましょう。

 以前「日本の農業政策は農業保護ではなくて農村保護だ」と言って笑われたことがあります。大規模農家の生産性が高いという統計はずっとずっと前から厳然としてあるわけです。しかし農地法が一般企業への農地移転を阻み、農地の保有構造を変えづらくして、結果的に農村を丸ごと保存することになりました。有力者の相対的な地位も、人間関係も。そこへ補助金を流し込んで全体を支え、まあ多分その上に政治構造が乗っかっていたのが55年体制でしょう。

 それが保たなくなった契機は、1988年の牛肉・オレンジ自由化に代表されるグローバリゼーションの進展でしょう。輸入農産物の問題だけではありません。地方の労働集約的な軽工業が輸入品に負け、農家から見ると兼業先が軒並み収入を減らしたのです。地方経済が弱ると、地方の政治面での突出がかえって目立つものになり、批判を浴びて、地方交付税財政投融資と言った再配分装置が相次いで地方へのパイプとしての力を失いました。

 そして「担い手」重視政策が来ました。農業政策が突然、純粋な経済政策になったのです。大規模農家とそれに順ずる規模を持つ農業生産法人以外は、2007年から所得補償的な補助金を受けられなくなりました。

経営所得安定対策等大綱 (農林水産省 平成17年10月)

 この流れの上で、民主党の「農家所得補償」政策を理解すべきでしょう。2007年に激変した分を元に戻そうというのです。どれくらいかは知りませんが。

 国や自治体にとって法の下の平等(憲法第14条)は重い原則で、崩すと収拾がつかなくなります。被爆者援護法が(対象となる人数、したがって財政負担はもともとそれほど多くないにもかかわらず)ずっと成立しなかったのは、他の戦災被害とのバランスがあるからです。農家が農家であるというだけで保護を受ける制度など作ったら、違憲論が出るかもしれません。直接支払(直接補償)自体は、WTO体制と農業保護を両立させる便法としてEUが導入していますから、国民と議会が思い切ればそれで済む話……であるはずですが。


EUの直接支払制度の現状と課題――政策デザインの多様化と分権に向かって―― (石井圭一、農林金融2007・6)

 いずれにせよ、「農業保護の名目で地方の老人世帯に流れてきたお金が止まった」ことを、ずっとその裏に隠れていた社会保障問題として捉えなおし、議論することは必要でしょう。

地域性のインフレと品目別の価格上昇

 2008年前半をピークに、原油、小麦、トウモロコシなどが高騰しました。最近は砂糖に投機資金が入っているのではないかと疑われています。

 国債中央銀行引き受けをやって通貨を増やすとインフレになるというのは常識ですが、価格の上がり方についてはそれほどよくわかっているわけではありません。通貨量を増やす政策を取ると金利が下がってくることは日常的に観察できますが、だいたいこの通貨量が曲者です。

 例えばAさんが低金利のお金で銀行から融資を受けて海外での株購入などに使ったとします。Aさんの勘定を考えると、日本に借金、アメリカにその分の資産。差し引きゼロです。ただ銀行などが持っていた預金を振り込んでもらって外貨に換えたとき、通貨扱いされる預金が「借用証書」という通貨扱いされないものに変わったことになります。逆に外国では、すでに発行されている株式(通貨扱いされない)を他人から譲ってもらって、両替した通貨を払ったわけですから、その国の通貨は増えたことになります。通貨量だけを見ていても取引の全体像がわからないのですから、「通貨量が増えると」という表現にすでにゴマカシがあるわけですが、その話は省略します。

 とにかく、通貨量を増やしてもそれが何の市場に使われるかによって、何が実際に値上がりするかが決まります。ストックの値打ちがフローに比べて大きくなく、他国との取引機会も限られているような国で貨幣を増やせば、そのお金は色々な今年の生産物を買うために少しずつ使われて、モノがないのにカネがあるわけですからいろいろなものが少しずつ上がり、一般的なイメージどおりのインフレになるでしょう。例えば日本が第二次大戦に負けた直後は、単にストックである工場などが破壊され、フローの民生品もないだけでなく、あらゆる商品の貿易が連合軍の管理下に置かれ、ほとんど輸入ができなくなりました。それが少しずつ緩んでいく間に、後から見ればそれを上回るスピードで民間にお金を貸したら復金インフレになってしまったわけです。

 ところが巨大な資金の動かし手が、世界の小麦市場やトウモロコシ市場に資金を集中投入し、値上がりを演出して売り抜けを狙うとなると、そのお金がもともとどこから来たかは問題ではありませんし、その商品だけが上がります。実際には、世界の原油を買い占めることなど誰も考えていなくて、ニューヨーク商品先物取引所やロンドン商品先物取引所に集中的な注文を出して、そこで発表される価格を釣り上げようとする行為が警戒され、名指しで批判される商社も出たわけですが。

 景気対策で金融を緩めると、そこから引き出された資金は地域別でなく、特定の「にぎわった」市場に集まり、世界中のその商品を値上がりさせるかもしれません。いくら金利を引き下げても、その地域のビジネスに(赤字を出さずに済む程度には儲かる)仕事がなければ、そんな地域の中小企業や個人に対する貸し出しは増えません。無理に増やした結果が貸し倒れに苦しむ新銀行東京です。中央銀行が何かをやっても「国の借金が増える」ことはないのでどんどんやれ、という意見の人が多いようですが、これは日本にとっても世界にとっても、大事な点を見落とした議論であるかもしれません。

なんでもありの社会人大学院(修士論文タイトル一覧)

 なんて公式なアウトプットには怖くて書けませんが。まあ実際に出てくる論文はこのようにばらけております。

2008年度修士論文タイトル一覧

 私らの大学院は、自分のテーマを深めるところ。ここまでぶっちゃけると他のスタッフから異論が出るかもしれませんが、自分の目の前にある問題を論文の形に(根拠をしっかり持って、論理的に組み立てて)まとめるところ。指導教員はみんなうんうん悩みつつ指導をしてます。正直に言えば、ポジティブな悩みもネガティブな悩みもあります。「これをなんとかしたい」という生々しい思いや悩みを形にしようと苦闘できるなら、それはポジティブな部類に入ると思います。

修士(博士課程前期)出願期間 平成21年9月3日(木)〜9月17日(木)ひとつよろしく。担当者必死です。←担当者

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