早期退職と一身上の都合について(私のことではありません)

 人は生活を守るためにいろいろなことをします。教師にはだいたい普通の意味での接客スキルがありませんし、理不尽な客との付き合い方の感覚も持っていません。退職金が数十万円減るとして、それを生涯もう稼ぐことができない、と予測する退職者がいても不思議ではありません。

 職場の思い出は二重の意味でプライスレスです。かけがえがないと同時に、いくらあっても老後の生活の足しにはなりません。例えばお金のかかる子供がまだ就職していないかもしれません。あえて汚名を着てでも現金を取って、生活を守る判断をする退職者はいるかもしれません。そして、法律はそうした行動を許しています。

 法律で許された行動を予見していない為政者は、早期退職に怒りを表明するよりも、その迂闊さをこそ自省すべきでしょう。もっとも、大半といってもよいほどの対象者が早期退職を思いとどまったのですから、彼らは十分に成功しており、財政支出の削減という重要な現下の課題に向けて役目をよく果たしたと考えます。もちろん彼らは法律の許す範囲で、早期退職者が「道義的な」責任を果たさなかったことを冷静に継続的に指摘し、財政支出削減に最善を尽くすことも職務のうちでしょう。

 生活のすべてが闘いではありませんが、闘いである側面もあります。私自身はこの件について誰かの肩を持つ立場にありませんが、給与水準と勤務の負荷が悪化の一途をたどる国立大学において、あまり優良とは言えない自身の健康もかんがみて、黙々と貯蓄に努力しています。

 現代の大学は様々な層の学生を抱えています。放っておいても勉強する学生は全体としてますます少なくなり、過去のマイナスを多く背負った学生も入学してきます。教育の力で在学中に伸び悩みを脱する学生がどれだけいるか。それが結局のところ教師が仕事をするということでしょう。

 給与の良い大学を志向した結果、自分の思いが届かない学生ばかりに囲まれてしまうなど、私は嫌です。もちろんそうした状況が、遠からずその大学が経営に行き詰まることを暗示しているせいもありますが。私は埼玉大学で、「ああ日本のボーダーラインはここか」とよく思います。端的に言えば、この学生さんに大卒にふさわしい仕事ができそうか、そうでないかということです。大学全部がボーダーライン以下だったら、私の仕事はそこにはないでしょう。

 私の配偶者が勤める大学と埼玉大学のどちらかが生き残れば私はとにかく食えます。それを与件として、私には私のミッション定義があり、私の生き残り計画もあります。それは埼玉大学が持っているものとぴったり同じではありませんが、その中で一緒にやれる部分があるからこそ私はここにいます。

 日本全体が少子高齢化で稼ぎを失い、ゆっくりと貧乏になってゆく過程の中で、今まであいまいにされていた権利と義務が問われる場面はまだまだ増えるでしょう。私はあまり道義を気にするタイプの人間ではありませんが、約束や義務には敏感なほうです。常々口に出すかどうかは別として、もっとほかの人も約束や義務を明確に考えたほうがいいのになと思うことはあります。それはこれから、否応なく突きつけられてくるからです。