次官通牒問題

 昭和初年のことですが、「次官通牒問題」という経済問題がありました。
 今でも理容師など一部の業界には「同業組合」という名前の業界団体がありますが、戦前には今はなくなってしまった法律に基づく、別の「同業組合」がいろんな業界にありました。輸出品の品質を保つことなどを目当てに作られた制度でしたが、これが価格カルテルの枠組みに使われることがありました。当時は独禁法なんかありませんから、価格協定を結ぶこと自体は違法ではないのですが、国の認めた同業組合の権威をバックに価格協定が実施されるとなると、消費者の不満は政府に向けられますし、何より、向けられるのではないかと政府側が懸念します。
 大正時代、農商務省次官の名前で道府県の担当者宛に通牒が出て、「同業組合が価格協定を組合員企業に課すことはやめさせろ」ということになりました。同業組合はいろいろと抵抗をしましたが、第一次大戦のあと日本全体が不況に陥り、ロシア革命を横目に見ながら政府が強硬に押さえつけて、いったんは同業組合の名前で公然と価格協定を結ぶことが、なくなりました。
 ところが景気がそこそこ回復した昭和初期、政府は商業組合という新たな枠組みをつくり、こちらには価格協定を認めました。業種別組合だとメーカーや問屋の発言力が強いので、小売だけ別に団体を組ませて振興しようという趣旨だったといわれています。中小小売業を保護する「百貨店法」もこのころから話の出てきた議員立法ですから、国民に密着して票田になりやすい小売業界を味方につけようと政治家が動いたのか、そのへんのことまでは存じません。
 おさまらないのは同業組合。我々にも価格協定を認めろ、と価格維持を盛り込んだ定款(組合の運営ルールですが、業務内容もここに書かれています)改正を道府県に願い出るケースが出てきました。定款改正程度は道府県の判断でやるのが通例だったようですが、商工省(そのころには農林省と分離していました)にお伺いが立つケースがあったのです。
 さてそこで何があったか、商工省は「大正時代の次官通牒はまだ無効になっていない」と言って、東京府がいったん認可したふたつの定款改正まで元に戻し、ルールどおりにやれ、と言い出したのです。
 そのあとどうするか、商工省の内側でもしばらく話がまとまらなかったようです。おそらくルール通りに処理しろといった官僚と、まあカタイことを言わずに、といった官僚がいたのです。実際、商業組合の場合も同業組合の場合も、価格協定を破った場合の罰則を履行させるのが一苦労で、確信犯のカルテル破りがいると組合の思惑を押し付けることは困難だという実態がありました。
 結局、協定価格を学識経験者などが入った委員会に決めさせることを条件に、商工省は価格協定を同業組合にも認めました。

 いや、何が言いたいかというと、ルールの微妙な部分に関する官庁の見解は、担当者の何気ない判断でころっと変わってしまうことがある、ということなのです。マスコミの取り扱いも、一社が大きく扱うと他者も後追い、などということがあります。最初の一社は、本当に何気ない判断をしたのかもしれません。

 火のないところに煙は立たないわけで、いつか煙の立ちそうな問題ではあったのだろうとは思いますがね。いくつかの条件が揃って、初めて煙が立ったとしても。