一般論ですが最近事件が多いですね

 社会の当たり前を当たり前に保つ仕事は、ふだん表に出てこない人たちを含めて、いろんな人が分担しています。親から始まって地域の小中学校、幼稚園、保育所、市役所、区役所、福祉事務所、保護司、民生委員、商店街役員から医療機関まで。

 どこかの矛盾が大きくなると、予定されていた分担を超えて、他のセクションに仕事がはみ出してきます。ごろごろ寝ている人をあーするこーする、というのは駅員さんの仕事ではなかったわけです。寂しい老人が増えると、スーパーのレジで世間話を始めるお年寄りを見かけることも増えてきます。

 大学には最近、義務教育でもない大学の位置づけからすると、どうしてこんなことが持ち込まれてくるのか、という問題が持ち込まれてくることがあります。大学を出てからのことを考えながら大学にいる。それがうまく出来ない人たちのことです。地域社会の他のセクション(家庭など)としては、とりあえず大学に通っている子弟については問題が顕在化していないわけで、大学で何が起きていても一安心できる面はあるのでしょうね。

 それとはまったく別な方向の問題として、社会が右肩上がりではなくなったことの影響が大学に及んでいます。経済的な問題を抱える学生さんが増えたことがひとつ。昔どおりの大学生活を送っても、その後の就職が昔どおりできないことが、もうひとつ。

 大学は学生に対しては、世間の代表としての顔を見せなければいけないことがあります。例えば卒業証書や単位を出すに当たって、自分たちの決めたスタンダードを守れなければ、過去現在未来の卒業生がみんなブランド価値の低下を食らってしまいます。「私がいて先生がいる。ここには他に誰もいない。どうして私を救ってくれないのか」というわけにもいかないのです。

 例えば1年365日、人間の気分にはムラがありますし、前後の出来事でやる気は左右されます。勉強する気になるタイミングは人それぞれで、教師があらかじめ予想するのは難しいように感じます。たまたまやる気が起こったとき、教師の適切なメッセージはそこにないかもしれません。教師のほうも自分の生活があるわけで、夢中になって学校教育をしていたらいつの間にか金属バットを持った娘が枕元に立っていたのではかないません。まあ正直、社会人教育のために夜間も休日も、人によっては年末年始も出動する我が学部は、いろいろと大変なのですが、それはここでの本題ではありません。

 なるべく多くの学生を刺激するメッセージを、なるべく効果的なタイミングとモードで発することに、工夫の余地はたくさんあります。卒業時に何を持たせてやるか。本当はパターン化なんか出来ないんですけれど、パターン化しないと仕事になりません。結局、物凄い手間をかければ何とかなるかもしれないケースが個別対応しきれず、社会を支える多くのシステムとの押し付け合いになって、大学がその矢面に立って何かをぶつけられるケースが、昔よりも多くなってしまうのです。

 たぶんそれは、世間の皆さんがそれぞれの立ち位置で頑張っていること、そして不景気で不機嫌な世情のあおりでますます厳しさを増している状況と、あまり変わりません。だから私は世間の皆様に「助けてください」という気になれないんです。同業についていない私の親戚知人も最近じーっとガマンして生きている人がたくさんいますし、ガマンで済まずに倒れたり逝ったりした人もいます。ただ、扱いの難しいお客様や納入先や上司や部下を思い浮かべて、「ふーん大学もそうなんだ」程度のことは思って頂けると、美しい誤解がなくていいかなと思います。