むかしのレポートへのコメント集

 むかし埼玉大学経済学部には「流通経済論」という恐ろしい科目がありました。その日の講義の初めにレポート課題が出て、その日の講義はそれに関するもので、最後の20分ほどを使ってレポートを書きます。それに対して評価とコメントが翌週返ってくるのです。何か書いたら単位がもらえる、と思う受講者が相当数いたこともあって、似たような文章に似たようなコメントを書くことに私が疲れ果て、この恐ろしい講義は幕を閉じました。

 来年度講義の準備をしていて、そのころ私が書いたコメントの例文集が出てきたので、ご覧に入れてみます。どんなやり取りだったのか、想像してみて下さい。

 この種の講義は、ある程度人数制限をしないと成り立ちませんが、そういう科目を新設してやらせろと密かに教授会を突っついているところです。来年の間には合いませんがね。


 この短い文章の羅列は、私が2002年度前期「流通経済論」のコミュシートに書き込んだ文章からより抜いた、私のコメントです。どんなコミュシートの文章にこのコメントがついたか、想像してみるのもいいでしょう。


 市場メカニズムは、もともと強い人を強いままに、弱い人を弱いままにします。

 内容をまとめる無難なレポートよりも、自分の言葉で内容を言い換える文章を書いて下さい。そうすると理解できていないところがわかってきます。

 ダフ屋は結局、市場メカニズムの一部なんですよね。良し悪しは市場の外から持ち込まれたものです。

 とかく経済分析に「結論」を求めたり、それを振り回したりする人は多いのですが、それに対する抵抗力をもって接するようにしてください。

 あなたは買い物をするとき、店の人のシアワセを考えて店や品物を選ぶでしょうか。こうある「べき」だと考えていることと、日常の判断の関係について考えてみましょう。

 そうした政策を推進するお役人自身の人事評価システムが問題となります。事なかれが評価されるから事なかれ主義がはびこるのです。

「支配」というのは便利すぎる言葉で、支配されていてもそれで仕事がうまく行くなら良いわけです。問題は、支配することがうまくいくか、なんですよね。

 価値観が価値観である限り接点はなく、接点がない限り話し合いで(強制や暴力なしに)現状を変更することはできず、現状を変更できなければ強いものは強いまま、弱いものは弱いままです。そこのところをエイヤッと処理するのが社会科学、ということになるでしょう。

 世の中には「正解」のない問題はたくさんありますが、「問題であると気づく」ことはとても大切です。

 あいまいな言葉を使って書くとあいまいな結論が出てきます。考えてみると、そうやって判断を先に先に延ばしていった結果、今になって不正や非効率が次々に日本政府から見つかっているのかもしれません。

 競争を促進することは、明らかに、社会にとってのコスト(犠牲)が伴います。それを受け容れるということは、ひとつの社会のあり方を選択することでもあって、多くの日本人はこれに納得していないように思います。

 政府は市場や私たちよりさほど優れているわけではありません。私たちにどうしようもないことを政府に任せても、うまくゆくとは限りません。

「人の身になって、理詰めで考える」ことができると人生の武器になります。案外これができない人が多いのです。

 つながりの薄い相手と、取引のためにだけお付き合いするとき、市場メカニズムは最も教科書通りに働きます。

 政府のすることにアカウンタビリティを求めるのが最近の世論ですが、自分がなぜそういう行動をしたか説明しろ、と言われても困る面はあります。しかしシアワセの尺度をしっかり持って、それに沿って人生(ヒマ、カネ、ココロ)を使ってゆくことは、人生を充実した、張りのあるものにします。そう思いませんか。そのシアワセの尺度が機会費用最小化だとしたら味気ないですけどね。

 理論と言うのは、現実を扱いやすくするために、多くのものを切り捨てて単純化します。そのさい大事なことがたくさん振り落とされます。例えばコンビニの深夜強盗を防ぐための複数店員配置は、経済面だけで見るとコストに見合いません。しかし実際に運悪く強盗に遭って殺されるアルバイト学生のことを考えるのは、人間として大切なことだと思いませんか。損得を計算できることも大切ですが、損得を超えた人間味のある判断をそれに加えることも、やはり大切なのです。

 別に間違いではないのですが、そこから一歩具体化させようとすると、ぐんと難しくなるでしょう?

 善玉・悪玉をまず決め付けようとする人は非常に多いのですが、現代の重要な問題にはたいていそういうものは見当たりません。「自分に何ができるか、人に何ができるか」という視点が大切です。

「あらゆることを考慮する」ことと、「何も考慮しない」ことは似ていると思いませんか。

 モノの値段は需要と供給で決まり、どちらか一方「だけ」で決まることはありません。

「柔軟な規制」というのは「担当者の裁量でどうにでもなる規制」にならないでしょうか。

 力のある経営者、常に工夫する従業員は世の中にそうそういるものではありません。全体としてそういう人たちが足りなくなれば、社会は全体として衰えます。そういう意味では、社会の行く末は皆さんひとりひとりの能力にかかっています。

 人は企業(職場)でも生き、家庭でも生きます。その二面性を意識できることは重要です。

 個性化・差別化を叫ぶことは簡単ですが、容易ではありません。よい例が大学です。

 ひとつの売買システムが定着すると、いろいろな人がそれを使います。趣旨を超えた濫用も起こります。制度を評価するときは、それら全体を見直す必要があります。

 弱いものは守ってあげるのが社会的に「正解」だと考える人は多いのですが、あなたの日頃の買い物はそれに沿ったものでしょうか。思い返してみてください。

 あれこれ言われるたびに、どれもその通りに思えてくるのは誰もが持っている人情と言うものだと思いますが、自分なりの整理をしないと自分や他人を動かせる力はつきませんよ。

 人からは愚かな望みに見えても、本人の願っていることは需給の一致する価格で実現させてしまうのが市場メカニズムです。

 法律を細かく書くほど抜け穴は多くなり、抜け穴をチェックすることは困難になります。著作権法の例を考えてみればわかるように、日常生活を法で「きちんと」規制しようとすると大変なコストがかかってしまいます。

 戦略を立てることが大事、という点では誰もが一致しますが、その戦略が浮かばない、浮かんでも実行できる基礎がない、ということがあまりにも多いのです。

 必ず(みんなが傷つかない)答えがあるはずだ、と信じ込んでいるような印象を受ける文章です。それよりも、傷つく人や倒れる人があっちにもこっちにもいるこの世の中で、自分には何ができるか、あの人(たち)には何ができるのか、と考えてください。

 自分の言葉で言い換えたり、自分の身の回りの例を使って考えたりしてみると良いでしょう。自分の言葉で語れないことは、聞いたつもりでいても、本当に聞いたことになっていないのだと思います。

 会社には、「言われたことだけしている人」「毎日起こることに責任を持って取り組んでいる人」「何もしていないか、人の邪魔をしている人」の3種類がいます。あなたはどれになりたいですか。

 おそらくそれは、あなたが触れたことのない考え方に出会い、それを自分のものにするのにてこずっているせいです。それはとても良いことです。できないことができるようになってこそ、勉強したと言えるのではありませんか?

「思う」ことと「筋道を立てて理屈づける」ことの差がそろそろわかってもらえていると思います。そうなると調べることの大切さもわかってきます。大切なことには、夢中になれる(こともある)ものです。

 利害が最初から対立しているのに、何度話し合っても対立点が対立点でなくなるわけではありません。また、人間は自分の生活以上に重要なものはないので、その生活が脅かされると常に「あまりにも著しい」と感じます。

「当たる企画なら金は出すよ」と制作会社に言い、当たらないと「我々の頼んだのは当たる企画だぞ!!」と怒る広告代理店担当者がいるそうです。あんたの仕事は何なの、と思いませんか。

「暮らしやすさ」は総合的なものなので、特定のものを「必需品」と定義することがじつは難しいのです。

 社会的に「良い」「悪い」という結論を出すことが学問のコタエであると考える分野もあるのでしょうが、私はそうではないし、私が皆さんに求めるものもそうではありません。自分の言葉で、自分の考えを展開できるようになって下さい。他人の「べき」論をオウム返しにしないように。

「調査をする」「尊重する」という掛け声は人の心にとって決してムダではありませんが、「考えてもわからないことはわからない」という厳しい事実を覆い隠してしまいます。

「目標を達成できればヨシ」と「目標を最も安上がりに達成出来なければダメ」の違いに気づいてください。

 短い道筋で答えにたどりつこうとしないで、「なぜそう思うか」「他の考え方はないか」と注意深く考え、一歩先に踏み込めるようになって下さい。

「自分の言葉で」語るためには、その日受けた授業内容だけでは足らず、自分が普段から使っているヒキダシを開けて言葉を取り出さなければなりません。仕事と言うのはそういうもので、持ち場を与えられたら「これは習ってません!!」では通りません。

 ブランド化に成功する例は実際には極めて少なく、それで開拓できる市場はたいてい、ブランドなど気にしない人々のいる市場に比べると、ごく小さなものです。

 理論には理論にしかできないこともありますが、何でもできるわけではありません。何でも出来ると主張する人にであったら、注意しましょう。

 メリットとデメリットを受ける人がそれぞれ異なるときが行政の困りどころです。

 ズレそのものは結局調整できないんじゃないかと思いますね。社会に暮らしていると。しかしズレがどこにあってどういうズレかを知ることはできて、それはとても大切なことだと思うのです。

 システム全体の信頼性を確保するのはタダではありません。素人どうしの取引はこのコストを省いているため、うまくゆけばよいのですがうまくいかないこともあります。

 勉強そのものは自分でもできますが、勉強する態度を作るのは教育機関の仕事です。

 根底の考えには実は社会のコンセンサスがないことが多く、結論(制度)だけを受け身に容認している人が大勢います。

 矢印のついたメモを書いて全体の構成を2、3行考えてから書くと良いと思いますよ。

 大切で解くに値する問題は、たいてい最初は「どうしたらいいかわからない」形に見えます。それをあれこれ工夫して、少しずつ工夫したり失敗したりしながら、具体的で(ひとつずつなら)解ける形に分割してゆくのです。それが本当の勉強だと思います。

 だいたい理解できていると思うのですが、賛否いずれかをはっきりさせた文章にしたほうがオモシロイでしょう。オモシロイはワカリヤスイの基本なのです。

 結論を明確にすることよりも、結論を導く道筋を丁寧にたどることを考えてください。

 官僚にはありとあらゆる方向からの要求が集まってきます。それらを「バランスよく」処理しようとすると、「足して2で割る」ことになりがちで、そうすると「最初の声が大きかった」人たちの言い分がより多く通ります。

 柔軟な発想を持ち、それを表現できるようになることがこの講義の目標であり、それに沿った成果(のみ)が高く評価されます。講義の狙いと評価の仕方がバラバラだとしたら、講義など聞くだけムダではありませんか。

 かなり苦しんでいるように感じますね。あなたはどういう大人になりたいですか? そういう「なりたい自分」と「今の自分」の差はどこにあるでしょう。その差を埋めるにはどうすればいいでしょう。

 学校は学校。自分の暮らしは自分の暮らし。高校生までなら当たり前の感覚と言えるかもしれません。
 自分をコントロールする。それができるようになったら回りの人や家族がどうしたらいいか、一緒に考えてあげる。そうした日々の暮らしにつながる勉強をしなければ、人生はもったいないと思いませんか。

「前提」を疑うのは大切なことですが、これがないと議論ができず、「一番良く知っている人が全部決めてしまう」ことになります。社会科学の大事な役目は、それを防ぐことです。

 いままで「当たり前」だと思っていたことが、他の「当たり前のこと」とぶつかって、両方同時には実現しないことに気づきましたね。

 リーダーと、リーダーを支える役と、どちらもこなせるようになるといいですね。

 経済と言うのは扱いを誤ると人の人生が狂います。本当に死ぬ人もいます。核兵器よりはるかに犠牲者は多いのです。自分の問題として、自分や親しい人の人生がかかっていたらどうか、という真剣さと慎重さを持って取り扱ってください。

 弱者を助ける(セーフティネットを張る)のは大切なことです。大切なのは、それが経済学とは異なる系統の根拠を持っていると理解することです。

 どのあたり(のレベル)を向いて話をするかは常に難しい問題です。言えば何とかなる人は言って何とかしたいと思いますからね。教師としては。

 結局、自分に何ができるか、と考えられる人だけが歴史を作ります。

 非常にきれいな答えですが、「ある程度」は誰がどう決めるのでしょうか。

 市のお役人はトラブルを収めても評価されず、トラブルがあれば減点されるとしたら、結局事なかれ主義になるでしょうね。

 商店街の中小店は一般に、変化しようとせず、変化すべき場合でもそれが遅れます。資金などの資源、経営者の能力などがネックになります。店主が研修のために店をあけてしまったら、店の責任者が誰もいなくなってしまいますよね。

 話をかみ合わせると言うのは大事なことです。テーマから離れたことを言ったり書いたりしても評価されるのは学校の中だけです。

 問題を丸ごと他人に投げる態度を疑問に思わないようだと、いずれ自分の運命を他人の自由にされてしまうかもしれませんよ。

 全部こういう講義だったらシンドい、という受講者がいます。その通りだと思います。

 受験の偏差値は若い先生が進路指導に参加し、発言できるようにもともと導入されたものです。それまではベテランの先生が『俺の勘ではこいつはこの大学は無理だ」というと誰も反論できませんでした。
 理論のない世界は人情あふれる世界でしょうか。それとも「権威に逆らう手段」を欠いた、コネと既得権の世界でしょうか。

 つまり経済合理性だけで完結する世界は人生のほんの一部であって、その外側に「好き、嫌い」に支配される「生き方」が問われる世界があるのだと思います。

「さまざまな」「きちんと」というような言葉は、使うと格好がつくけれども、自分の深刻な問題にそういう言い方で物を言われると腹が立ちませんか。

 実際には街も店も個性をもともと持っているほうが少ないくらいだと思います。自分で演出し、目指していかなければならないのです。

 答えが本に載っているような問題は、たいした問題ではありませんし、社会に出てから皆さんを悩ます問題はそのような問題ではありません。

 私は「出席さえしていれば単位がもらえると思っている受講者」をあぶり出そうと目を光らせているので、そうではないということを示して下さい。

「しっかりした政策」とは何でしょう? お金を使う政策? 魔法の政策?