メカはメカ、ヒトはヒト
経済学の最大化行動は、
- 目に入ったものだけ最大化している
- 計算できるところだけ推定して最大化している
- 無意識に、あるいは明示的にスパン(期間)を設定している
わけです。例えばむかし某化粧品会社でこんなことがありました。本社から販社に出向してきた営業さんが、在任中の売り上げをとにかく上げようと、小売店に商品を押し込んで離任してしまう。まあどうして断らなかったのか知りませんが、小売店の仕入担当者と販売担当者が違っていて、仕入単価が下がれば仕入担当者の手柄、不良在庫が貯まったら販売担当者の責任で、たくさん仕入れれば仕入単価を下げてあげる、と販社の営業さんがささやいたりしたんでしょうか。
まあとにかく気がついたら本社は好調なのに小売店は不良在庫がいっぱい、やっぱり返品される分もあるので販社も不良在庫がいっぱい。本社がやっと構造に気がついて、いずれ共倒れになるよりはと、不良在庫を一斉返品させて本社の損失として計上したという話。
だから、全体として正しくても個々の関係者にとっては手を出すと損であったり、全体としてアレであっても一部の部門が熱烈に支持していたり、それは普通にあるわけです。最大化原理が理屈として間違っているわけではなくて、現実に働いてもいるんですが、最大化しているものは省利省益だったり個人の実入りだったり。それはまあそんなものであり、その弊害がなるべく出ないようにああでもないこうでもないと企業も政府も組織をいじくっているわけです。
部門の利害とか個人の利害とか、頭のいい人でも案外無視してかかる論者がいて、無視するとやっぱり目的と手段のバランスが崩れます。
メカニズムだけで処理できないところは「政治的に」意思決定して処理するしかないわけで、どこからどこまでがそうなのか、ということですね。