宮中某重大事件と妥協システムの崩壊

 むかし宮中某重大事件というのがありました。どんな事件であったかは本筋と関係ないので略します。1921年に起きたこの事件で、山県有朋が大衆から批判されて、政治的な力を最終的に失いました。

 明治憲法には内閣の規定がなかった、などとよく習いますが、もうひとつ法律になっていないものがありました。(実質的な)総理大臣の指名方法です。最初のうちは、元老の集まりで天皇に推奏する候補者を決めていました。元老になるには「元勲優遇」といった文言の入った勅語をもらうのですが、その会議のボスが山県有朋伊藤博文であったわけです。

 国民や議会からこのシステムが分離されている限りデモクラシーも何もないわけですが、この元老会議に財界と関係の深い井上馨松方正義、そして陸軍と官僚組織を牛耳る山県有朋が加わっていたことで、利害調整の場となっていました。山県が失脚したことで、利害調整の場がなくなってしまったわけです。

 昨年の70兆円緊急経済対策法案をアメリカ下院が否決し、結局妥協が成立した過程は日本でも大きく報道されました。民主主義に本当に必要なのは、多数決よりも妥協のシステムです。それによって実行可能で整合性の取れた意思決定が可能になるのです。

 大正日本は元老会議の軸を失い、山県有朋が議会から自分を守るために積み上げてきた軍の独立を守る諸制度を軍「だけ」を守る高級軍人たちが手にしたことで、国全体としての妥協のシステムが壊れてしまいました。私は、1945年までの道筋は1920年代に決まったと思っています。1930年代以降に出来たのは滅び方の選択だけだと思います。

 いま日本では政治家が次々と精神的な疲弊や対案なき不平、さらには政治資金の不正申告で立場を揺るがされています。法律はルールであり、立件できる証拠が揃った限りで立件される、という程度には日本のシステムはちゃんと生きていると思いますが、どんどん妥協案をまとめるシステムが崩れていく印象があって、その点を気がかりに思います。