世の中に蚊ほどうるさきものはなし ブンカブンカと夜も眠れず

山上浩二郎の大学取れたて便
大学とは何か、キャリア教育や大学予算の貧困に危機感広がる/中教審・大学分科会
http://www.asahi.com/edu/university/toretate/TKY201011160352.html

 大学とは生きる力をつけるところである。可能な限り煎じ詰めるとそういうことだと、私は考えています。この記事にもあるように、大学の中には(そうはっきり口には出さないけれど)研究環境への関心が教育環境や教育の中身についてよりも高い先生もいらっしゃいます。教育での実績を大学での昇進において評価するのはきわめて難しく、せいぜい一定程度に達していればヨシと「必要条件のひとつ」とするのが関の山です。関の山と言ってもおそらく世間が思っているより現場は進んでいて、埼玉大学経済学部が新採用する教員はたいてい、選考に当たる教員たちの前で模擬講義を一時間やらされます。

 受験生も大学生もまだまだ、大学に入って楽に出て行くことを考え、指示の明確さとハードルの低さを大学に求める意見がよく聞こえてきます。「大学の外に出て役に立たない勉強をするかどうかは皆さん次第だ。ノートが取れずにプリントされた講義資料に頼っているようで、社会に出てワガママなお客のメモなど取れるものか」などと私は学生さんをよくけしかけます。

「社会人基礎力」「学士力」とキーワードだけは踊りますが、話し・聞き・読み・書く力、チームの一員となって働く総合的な力は常にその中に入っており、あえて言えばその中心です。その総合性が、大学にあって他の機関にはなかなかないものです。そしてホンモノを学生に見せるために、ホンモノの研究者が必要なのです。それは総合性の一翼でしかないので、大学教員が研究以外のことをさせられるのは仕方がありません。教員にも総合性は必要だということです。

 大学分業論は1998年の大学審議会答申「21世紀の大学像と今後の改革方策について ―競争的環境の中で個性が輝く大学―」のタイトルに見え隠れする(もちろん本文にも出てくる)話で、陰に陽にすべての大学が問いかけられ続けて10年以上になります。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/daigaku/toushin/981002.htm

 例えば社会人教育は夜間開講など、他のニーズと真っ向から資源を食い合うしかない性質のものです。かといってそれだけを分離させるとコストが上がってしまいます。埼玉大学は「多様なニーズや研究リソースを持つ首都圏の一角を構成する埼玉県下唯一の国立大学であるという特性を最大限に活かし」云々と中期目標にうたっていますが、「色々あるのがいいんだよ」と言わんばかりです。いや、私はそう思っているのですが、そこまで言い切ることが埼玉大学の総意かというと自信はありません。

国立大学法人埼玉大学の達成すべき業務運営に関する目標(中期目標)
http://www.saitama-u.ac.jp/guide/pdf/chuki-mokuhyo.pdf

 私の担当するミクロ経済学が県民開放講座に当たった年などは、県民開放講座の御老人方、社会人学生、昼間主コースの一般学生、さらに制服で登校してくる高大連携講座の高校生がひとつの教室に集まりました。「いろんなことを少しずつやっているメリット」が端的に現れた例です。実際の例をひとつ挙げるたびに、年長者にだけ分かる話であったり、若い人にだけ実感できることであったりします。その反応を横目で互いに見ていたみんなに、メリットがあったと思います。

 埼玉大学経済学部のホームページには「普通をしっかりやってます」と書いてあります。これは学部が目指すスローガンではなくて、広報担当の教員が「実際に私たちがやっていること」を短く表すために工夫した表現です。

 私たちは一年生のための必修科目「プレゼミ」を置いています。最初の週に顔合わせと説明をして、大急ぎで希望を取って抽選をして、最大でも14名の小グループで半年間勉強します。これは全国の経済・経営系学部で普通に置かれているものですが、私たちのプレゼミにはシンプルな、際立った特徴があります。すべて例外なく午前9時からの、一番早い時限に置かれているのです。大学生になったからと早起きもできなくなった学生には、埼玉大学経済学部は昼間主コースの卒業証書を出しません。これは教員からの抵抗も……げふんげふん。早起きは普通の初めなり、というところですか。

「経済学」「経営学」「法学」の3つの基本科目は昼間主コースで必修です。それぞれの分野の基礎的な考え方や言葉を学びます。「経済学部卒業生すべてに知っておいてほしいこと」を教員の間で考えながらお送りしています。これらを受講してもらってから、1年生の終わりに学科所属の希望を聞いて、基本科目の成績順に希望を通します。もっとも、所属学科の科目を最低いくつかは取れという制限があるだけで、学科によって「できないこと」はほとんど生じていないと思います。

 2年生になると、9割くらいの学生はどこかの演習に所属します。2年間受講して4年生になると6割あまりの学生が演習論文を書きます。学年ごとの上限は10名としていますが、4年生が実質的に演習にいるとしても最大30名。プレゼミや演習の教員は一種の担任であって、取得単位数などで見て標準的な履修ペースから離れていると電話などで呼び出して、直に話を聞きます。あえて「話し合い」とは呼ばないことにします。まず話を聞きます。

 大学入試は「シンプルな学力テストをしただけ」です。家庭や経済状態や順応力といった、測りたくても測れないものは測っていません。だからまあ、入ってから色々噴き出すわけです。たぶん御本人にも想像できなかったものも含めて。それを全部何とかできているとは思えません。自己責任という言葉はきれい過ぎて実態から遠いですね。ほんとうにどうしようもないのです。自分が「なりたい自分」でないことは、本人も含め、誰にもどうしようもないのです。今いるところから歩き出すしかないのです。社会人がみんなそうやっているように。

 そんなときに役に立つ「生きる力」は、たぶん学問じゃありません。もう少し根本的で総合的なものです。学問をすることは、それに触れ、それを伸ばすための方便なのです。

 私のゼミ学生に日本銀行が「金融経済に関心を有する幅広い読者層を対象」に向けて発表している日銀レビューシリーズを読ませてみました。「リスクアペタイト」「ラ米」などと普段使わない言葉がジャラジャラ出てきます。丁寧に解説していたら4ページ読むのに2週間かかってしまいました。それっくらい世間と高校の差はあるのです。そのギャップに大学を出てからぶつかったら、そりゃ3年で辞めるでしょう。大学にいる間に少しでもギャップを埋めておかないといけないし、埋め方を知らないといけません。資料の使い方、頭の使い方、人の使い方。いきなり「指示を下さい」と丸投げじゃ人は助けてくれません。

 そういった総合性のスープを提供することに、分化というなら分化したいものです。まあ私たちが、アピールの仕方を工夫しなきゃいけないことは認めますが。